鬼住山の鬼退治には、あまり語られない「結末」があります。まずは紙芝居でどうぞ。そのあとで、この物語がどこから来たのかを、史料からたどります。【伝承】の回です。
紙芝居 ―― 鬼の物語

いまからはるか、むかし。伯耆の国に、鬼住山という山があった。その山に、二匹の鬼が棲んでいた。兄を大牛蟹、弟を乙牛蟹という。鬼たちは夜ごと里へ下りては、人を悩ませた。

みかど――孝霊天皇は、この鬼を鎮めるため、はるばる大和からこの地へ下られた。けれど鬼は山ふかくにこもり、なかなか姿を見せぬ。

そこで天皇は、一計を案じた。笹の葉に包んだ団子を、山の口に置かせたのだ。香ばしい匂いが、谷を伝って鬼の鼻をくすぐった。

こらえきれず、弟の乙牛蟹が這い出てきた。その刹那、弦の音がひとつ。――弟は、倒れた。

残るは兄、大牛蟹。天皇の軍は山に火を放った。乾いた笹は燃えあがり、鬼住山は炎に包まれた。

逃げ場を失った大牛蟹は、蟹のように地を這い、頭を垂れて言った。「降参いたします。これからは、あなたさまの北を、守らせてください」

天皇は、これを討たなかった。「よし。お前のその力で、北を守れ」――鬼は滅ぼされず、北を守る者となった。

里の人々は喜び、笹の葉で屋根を葺いた素朴な社を建てた。これが楽楽福神社の、はじまりだという。

そして鬼はいまも、北の谷を見下ろしている。
――これは、鬼住山に伝わる三つの物語の、ひとつ。
ここからは、史料の話
鬼退治のあらすじは前に書いたので、ここでは紙芝居の「結末」が、どこから来たのかをたどります。
兄弟の運命は、同じではなかった
弟の乙牛蟹(おとうしかに)は、笹巻きの団子につられて出てきたところを矢で射られます。容赦がありません。
では兄の大牛蟹(おおうしかに)はどうなったか。笹の火攻めで敗れたあと、神社の由緒はこう伝えます。蟹のように這いつくばって、命乞いをした。「降参します。これからは天皇の配下となって、北を守らせて下さい」。孝霊天皇の答えは――「よし、お前の力を持って北を守れ」。
鬼は、許されたのです。そして滅ぼされる代わりに、北の地を守ることになりました。この「北」がいったいどこを指すのかは、最後に山を歩く回で、いまも立つ鬼の像の向きとあわせて考えます。喜んだ里の人々が笹の葉で屋根を葺いた社を建てたのが、楽楽福神社の始まりと伝わります。
町に鬼が飾られている、本当の理由
正直に言うと、移住してきて最初に面食らったのがこれでした。おにっ子ランドの巨大な鬼像を初めて見たとき、「いや、鬼って退治された悪役では?」と。なのに鬼守橋にはずらりと並び、駅のトイレにまでいる。よその土地から来た目には、けっこう不思議な光景です。
結末を知ると、見え方が変わります。この町の鬼は、悪役のまま終わっていない。降参して、許されて、北を守ると約束した鬼です。つまり町じゅうの鬼の像は、さらし者ではなくて――配置についているんです。
「鬼守橋」という名前を見てください。鬼を守るのか、鬼が守るのか。どちらに読んでも、退治の話では説明がつきません。そしてこの「鬼守橋」という名前、最近の町おこしで付けたものかと思いきや、大正15年の『日野郡史』にもう載っています。鬼が守るという発想は、少なくとも100年前からこの土地にありました。
この物語は、どこに残っていたか
ひとつ正直な注釈を。兄弟の名前や団子の場面そのものは、前回書いたとおり、失われた縁起の前半にあったとみられる内容です。文書が消えたかわりに、神社の由緒、江戸時代の地誌『伯耆民談記』(退治された鬼を埋めたという鬼塚を記録しています)、そして口伝えが、この物語を今日まで運びました。
町の公式紙芝居「鬼住山ものがたり」が「鬼を改心させて守り鬼にした」と結ぶのは、この由緒の結末を子ども向けにやさしく言い直したものです。ちゃんと、伝承の芯を継いでいます。
うさぎのひとこと:「北を守らせてください」って自分から言える鬼、けっこう偉くないですか。わたしなら南の暖かいほうを希望します。
参考文献:
- 楽楽福神社の由緒・縁起の伝え(japanmystery「楽楽福神社」 ほか)
- 『日野郡史』下巻(大正15年)— 鬼守橋の記載 国立国会図書館デジタルコレクション(コマ496)、鬼塚の記載(『伯耆民談記』引用・上巻コマ65〜66)
- 伯耆町公式「紙しばい 鬼住山ものがたり」
- ※伝承部分は「〜と伝わる」内容です。孝霊天皇は実在性に議論のある時代の天皇で、史実としてではなく、土地が語り継いだ物語としてお読みください
- ※紙芝居の挿絵はすべてAI生成イラストです(伝承の場面のイメージとして制作)